コラム

『みすずノートマーブル染 』上島明子

2020/09/25

私が美篶堂に入社して最初の仕事は当時あった銀座のOJIギャラリーで「上島松男の美術製本展」が半年後に控えた頃で準備に追われました。現在は桑沢デザイン研究所所長の 工藤強勝先生がアートディレクションしてくださり、それまでの製本作品をご依頼くださったデザイナーのみなさまに許可を取り、展示させていただき、その他松男親方の作品も展示のために作成しました。その中で、仕事ではなかなかこない、小口染、マーブル染の作品がありました。

こんなに素晴らしい小口マーブルをなぜ、普段しないのか、聞くと「手仕事はコストがかかり、仕事としてこないから」とのことでした。当時、マーブル染は工場内でだれも経験がなく、作品づくりはかなりクラフト的で、大変勉強になったものの、一度や二度見たことがあるだけでは技術を引継ぐのは無理だなあ、と考えておりました。

 一方で、当時週末は美術館のミュージアムショップや海外の書籍をひたすら見に行っていて、その中にイタリアの小口マーブルのノートを見つけました。そこで、自社でもオリジナル商品としてノートを作るのはどうか、と考えました。 明治の頃に海外から技術者が日本に来て、日本の製本職人を指導しました。松男親方も修行した製本所で引継ぎました。当時資料には『マル秘、社外持ち出し厳禁』と書かれていたそうですが、あまりに手間で関心持つ人が少なく、独立するとき、資料のコピーを持っていていいよ、といわれたそうです。

海外からやってきて日本人が引き継いだ洋製本技術。親方が独立するときに御殿場の泉龍寺の御住職が彫ってくださったという篆刻を元に、凸版を作り、空押しして、日本人が引き継いだマーブル染ノートが出来上がりました。一冊として同じものはないです。作った当初、洋書店のイベント会場で販売すると、お客様から「まだまだだなあ、頑張れ!」と下手なマーブル染ノートにお金を出してくだった方があり、大変励まされました。